「自己肯定感」を育むための「自己肯定感」は何処で手に入る?「努力する才能」の育て方
「才能」という概念は「賢さ」とはまた違った曖昧な概念だといえる。文化によっても意味は異なるし、状況によっても変わる。
しかし、時代に合った何らかの専門性・スキルがある人物はいつの時代でも重宝されているだろう。それは求められるスキルを見抜くという「適応力」とも見て取れるが、根本的に言うと、それは「継続できる能力」に他ならないだろう。
努力する才能、続ける才能、才能に気づく才能、面白味を見いだす才能
いわゆる「成功者」、すなわち「チャンスをものにすることが出来た人」には例外なく
「継続する力・エネルギー」がある。
結局のところ一部の天才を除けば「努力」「継続」が一番の才能だ、と考えている人も多いのではないだろうか。
しかし、「継続できる環境にあるか否か」に関しては、本人ではどうにもならない。
「自己肯定感」とは「人生に無駄なことはない」と思えること
表現のしかたこそ違えど、いわゆる「成功者」は「自己肯定感」を意識しているものだ、と思う今日この頃である。
「報酬で満足感を得る」システムを構築し、持続した努力を行うシステムを構築したのだ。
自己肯定感は高いか低いかではない、他人と比較するものではない。
本人のなかで高い低いはあっても他人より高い、とかは比較しようがなく、他人との比較に持ち出す者がいたら、
それは「自己肯定感の意味を理解していない」といえるだろう。
「自己肯定感」を育むための「自己肯定感」は何処で手に入る?
ただがむしゃらにやり抜いて成功を納めるのは一部の「天才」だけだろう。
世間に「天才」と評価されている者でも、それまでの過程で「努力するための努力」「自己肯定感を持続的に得るためのエネルギーを確保する方法」を見つけ出していた、のではなかろうか。
それは意識的に始めた自己暗示的な何かかも知れないし、生活におけるルーティーンかも知れない。思い付きで始めた趣味かもしれない。
一見役に立たないようなことに見えても、一種の「面白味」を感じたら何らかの形で取り入れる、それが先に述べたような「努力の糧」になるかもしれない。
「人生に無駄なことはない」とはこう言うことなのかもしれない。
胸を張って「人生に無駄なことはない」と言えるのは、努力の賜物だったのだ。
(あくまでも個人的見解です。)