【氏と育ち】発達障害は遺伝なのか、それとも教育なのか
社会ダーウィニズムと社会ラマルキズム
人間の知能は、
身体能力は、
センスは、
「遺伝」なのか「環境・育ち」なのか?
これは誰でも一度は考えることだと思います。
この話題については分野問わず様々な説がある印象ですが、その根幹にあり、そして一番有名なのは
と言っていいでしょう。
「遺伝」こそが全てを決める
用不用説を唱えたラマルクの主張は
「環境」がすべてを決める
となります。
自然選択説(しぜんせんたくせつ、英: natural selection)とは、進化を説明するうえでの根幹をなす理論。厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与えるという説。1859年にチャールズ・ダーウィンとアルフレッド・ウォレスによってはじめて体系化された。
用不用説とは、フランスの博物学者ラマルクが提唱した生物の意志を進化の原動力と考える進化論のこと。 用不用、獲得形質の遺伝の2つの法則からなる。
出典:https://dictionary.hatenadiary.jp/entry/2018/07/21/000000
ということで、今回は「遺伝」と「環境」について考えてみたいと思います。
社会ダーウィニズムはナチス?
ナチスのプロパガンダとして「社会ダーウィニズム」を根拠とした「人種主義」が掲げられていました。そのせいか、「優生学」「優生思想」と聞くとナチスを連想しがちな印象がありますね。
一応言っておくとダーウィニズムが優生思想というわけではありません。ただ解釈によってはそういった主張もできるというわけです。そもそも人種主義に科学的根拠はなく、ナチスの人種理論は似非科学的主張だとされています。
でも、「ナチスは悪であり、狂気でしかない」で終わる話ではありません。以前の記事でも紹介しましたが、優生思想は普段の生活で生じる素朴な功利主義的感情からいつ起こってもおかしくないのです。
例えば「障害者に因る医療・福祉の財政負担、介護者・関係者の負担」といった問題についていざ考えてみたときに、ナチスや2016年にあった相模原障害者殺傷事件のような「内なる優生思想」を否定することはできるのでしょうか。
こちらもぜひご覧ください。
遺伝の影響について議論するのはタブー?
遺伝の優劣について話題にするのはタブーとされている一方で、「環境」になると大分扱いが違うような印象があります。
「環境が違う」を「自分は恵まれているなあ」「環境が悪いせいだ」というニュアンスで使う人をTwitterで見かけることがよくありますが、僕自身違和感を覚えることがあります。別にダメとは言ってません。「隣の芝生は青い」という言葉もありますし、気軽に話題にしてもいい今の方が自然だと思いますし。
あと、これはブーメラン発言になりますが、環境の違いを「恵まれている」「恵まれていない」でしか語らないのは
「平等主義ちょっとわかってますよ」
「平等なんてありえない、平等を目指すほど不平等が生じるのさ」
「不平等が自然の姿、それを受け入れた社会を目指そうね」
と言っているのと同じではないか、とも思います。
「環境のせいにするな」
「それは環境のおかげだと自覚してますか?」
もそうですね。
人びとを平等に取扱うことと、 人びとを平等たらしめようとすることとの間には天地ほどの違いがある。 人びとを平等に取扱うことは自由な社会の条件であるのに対して、 人びとを平等たらしめようとすることは、ド・トクヴィルが述べたように、 「隷従の新しい形態」を意味する。---F・A・ハイエク
出典:EQUALITY
きれいごとかも知れませんが、「人は生まれながらにして不平等かも知れないが、可能性だけは平等であってほしい」とは僕も思います。
【環境決定論】環境と人間の関係を議論することがタブーだった時代
例えば
- 人間の行動・欲求・信念は生来的性質により決まる
- 人は環境によって変化するものであり、主体的に適応するものではない
といった考えを間違っていると証明することは難しい。
しかし、氏か育ちかは二者択一的に決定するものではない。
氏と育ちの両方によって人は形成されているのであり、さまざまな行為のそれぞれについて遺伝の影響と環境の影響が複雑に絡み合っている。
- 日本人の半数は牛乳を飲みすぎるとお腹を壊す。
- 北米人は海藻を消化できない。
これは環境に起因するものといえると思いますが、これでどちらかが優れている劣っているというわけではないですよね。
逆に「環境で全てが決まる」という考えもそれぞれの文化に優劣をつけるもの、差別意識を助長するものとも言えますよね。
環境決定論は帝国主義を肯定するものとして、戦後に激しく非難された[39]。ハンティントンの「気候と文明の関係」が環境決定論であるとされてからは、環境と人間の関係を議論することはタブー視されるようになった[40]。
戦後、いわゆる「環境決定論」は帝国主義を正当化するものとしてタブー視されていた時期もありました。
「環境」だけで全てを語ってしまうと「帝国主義」
「遺伝」だけで全てを語ってしまうと「優生思想(ナチス)」
になる。(あくまでも個人的解釈です)
やっぱり極端な思想ほど恐ろしいものはないですね。
言い換えると、「狭い視野で語ること」もそうですね。
生物学の最も白熱した議論の一つが「氏と育ち」(nature and nurture, 本性と教育)の議論である。人間的行為において文化と環境に比較して、遺伝学と生物学はどれほど重要であるか?遺伝学的研究は、ダウン症候群のような明白な場合から統合失調症になる統計学的傾向のようなより微妙な影響まで、個人の性格に影響を与える多くの特殊な遺伝的要因を見極めた。
※重度知的障害に対して、遺伝学的な視点だけでは語れない発達障害、精神障害は「傾向」を基に判断する統計学的要素が強くなる。そのため、グレーゾーンの問題、自称障害者や事件と精神障害を結びつける風評被害の問題がある。
統計学的要素が強い、他の例を出すと「学力偏差値」なんかもそうですね。
発達障害を断定することは難しく、実際は「傾向」をもとにそれぞれ判断せざるを得ない場合が多い
— S-kindle☽ASD☘アスペルガー大学生 (@shotaro_kindle) August 1, 2019
社会的弱者であることよりも「統計学的な側面が強い」ことが風評被害の原因ではないのか?
#発達障害 #精神障害 #はてなブログ #風評被害 https://t.co/v1FUAwgAO4