アスペルガー大学生

略歴:1999年生まれ。北海道出身。東京に住んでいたこともある。中学校2年生のときに自閉スペクトラム症(ASD)、社交不安障害(SAD)と診断される。2022年現在診断名はアスペルガー症候群(ASD)のみであり、スキゾイドパーソナリティ障害の可能性もあると考えている。小学生時代に2度の引っ越しと両親の離婚を経験している。一年の自宅浪人を経て北海道大学に入学する。2018年2月28日からアマゾンkindleに電子書籍配信。Twitter:@ShotaroKindle

「すっぱいブドウ」とは:自己矛盾は自己解決できるのか

 

「あなたは間違えている」と言われて即座に「間違えているのはあなたの方だ」と言い返せる人はどれほどいるでしょうか。

 

せいぜい「自分なりに考えると正しいと思ったのですが…」「まあ多様性ですし…」と答えるのが関の山ではないでしょうか。

 

 

自己矛盾は放置できない

 

自分が正しいと信じていることでも、環境さえ変わればあっさり否定されてしまうものです。

 

当然ですが、人はコミュニティによって与えられる役割は異なりますし、そして価値観というものも、家族や地域社会といったコミュニティによって与えられるものに過ぎないのです。

 

そんな中で本当の意味での「威信」「自尊心」を構築するためには自分の頭で考えたうえで共感出来る考えに出会うこと、そしてそれを目標にすることなのだと思います。

 

人間は生まれたときから好き嫌いで行動するものです。


「アイスクリームは好き、でもピーマンは嫌い」のような積み重ねを通じて「私はこういう人間だ」と社会に表明し続けているのです。

 

この無数の積み重ねの中には当然矛盾するものもあるでしょうし、いずれその矛盾は嫌でも目に入ります。この矛盾を放置したままでは、常に罪悪感や不安に苛まれる状況に陥ってしまうでしょう。


そこで人は無意識に後付けで自分の行動を正当化し続けているのです。人は常に自己矛盾を回避する行動を取るものだと言えるでしょう。

 

『すっぱいぶどう』の例がまさにそうですね。

 

酸っぱい葡萄とは

 

「酸っぱい葡萄」イソップ寓話のひとつです。

 

キツネはたわわに実ったブドウを取ろうと必死に飛び上がりますが、どうしても届きません。そこでキツネはこんな負け惜しみを言って去っていきました。

 

「あのブドウはどうせ酸っぱいに決まってるさ」

 

お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。

すっぱい葡萄 - Wikipedia

 

逆に努力の末にブドウを手に入れてブドウが酸っぱかったとしても「酸っぱい葡萄の方が好きなんだ」と自分に言い聞かせることでしょう。

 

自分こそが手に入れたかったが、到底かなわない対象と判断・諦めた後に、一部の人々はその対象を一転「価値の無いもの」「自分にふさわしくない低級なもの」と無意識に思い込もうとし、それを理由に諦めた原因である己の能力の不足と向き合うことから逃げて、心の平安を得ようとする。

フロイトの心理学では、この人々の自己正当化・自己防衛思考を防衛機制および合理化の例とする。また、社会心理学においては、認知的不協和の例とされる。英語には、この寓話を元に生まれた熟語として "sour grapes" があるが、これは「負け惜しみ」を意味する。「負け惜しみを言う」が"cry sour grapes" 、「負け惜しみを言う人」は"sour loser"や"bad loser"と言われている。

すっぱい葡萄 - Wikipedia

 

常識に囚われる人ほど環境の変化にストレスを感じる

 

  • 常識に囚われている人は常識が変わるのを拒絶する。
  • 自分が信じていたことを否定されるのを恐れる。

 

つまり「常識に囚われる人ほど環境の変化にストレスを感じる」と言えるでしょう。

 

いわゆるアスペルガーASDの方は、日常生活がルーティン化してしまう、予期しない変化・刺激を嫌うという特徴があるとされています。

 

変化を嫌うからこそ文化を継承する役割を担っていた、みたいな主張も目にしたことがありますが、現実的に考えると「変化を嫌うのはASDや自閉症の特性なんですよね~」で片付けていい問題ではないと個人的に思います。

 

ASD当事者の僕なりに「変化を嫌う=悪」という前提で考えてみると、

 

「常識に囚われる人は『常識=教養』と履き違えているのではないか」

という結論に至りました。

 

常識と教養を混同している人、といってもあまり伝わらないような気がしますので、具体例を考えてみたいと思います。

 

常識と教養を混同している人の特徴
  • 自分が知っているのに相手が知らないという人がいると「義務教育の内容だろ」「非常識だ」「どういう環境で生きてきたのか」みたいに相手の人格を疑う反応を取ってしまう。
  • 逆に自分が知らないことを相手が知っていると「そんなこと知っている方がおかしい」「どういう環境で生きてきたのか」

 

 ひねくれた頑固爺さん/婆さんみたいなイメージですね。

 

これは典型的すぎて実際に存在したら目を覆いたくなる例ですが、「え、これは知ってるのにそれは知らない?ふざけてるのかな?」と頭をよぎる経験くらいなら誰にでもあるのではないでしょうか。

 

常識と教養を混同している人、言い換えると「知性」が欠けている人と言ってもいいでしょう。

ある程度の「知能」があって自分の常識は正しいと貫けてしまう人の場合、より事態は深刻なものになるでしょう。

 

自分の常識が通用しない環境では自分の全てが否定されることになるからです。

 

先ほどの「ひねくれた頑固爺さん/婆さん」みたいな思考の人が、自身の非常識を受け入れる苦痛は筆舌に尽くしがたいものでしょう。

 

まとめ:「知性」とは「生きやすさ」のパラメータである

  • 「知能」は武器、スキルであるのに対して、「知性」というのは燃料、生きる力である。
  • 「知能」は字の如く「能力」のパラメータであり、「知性」は「生きやすさ」のパラメータである。

 

 

 

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