自閉症にとって「悟る」とはなにか~福沢諭吉の逸話から読み解く~
自閉症にとって「悟り」とはなにか~福沢諭吉の逸話から読み解く~
以前の記事で自閉症スペクトラム障害の「作話」について私見を述べさせていただきました。
本記事はこれの続きみたいなものです。
福沢諭吉の逸話にこのようなものがあります。
それは仏が本当に存在するのか実証するために、お札に小便をかけたり祀られている石を他の石にすり替えたりしていたらしいです。
しかし、彼に「罰(バチ)」が当たるようなことはなく、仏は存在しないと確信したとのことです。
(この逸話自体のちに作られた創作であるという可能性については触れません。)
もし仮にバチのような不幸が起こっていた場合、福沢諭吉の人生は大きく変わっていたかもしれませんね。
話を自閉症に戻します。
アスペルガー当事者である私も仏や宗教といったものを特に信じていないし、そもそも興味がありません。
ですが、もしかしたら「宗教を考えたのはアスペルガーなのではないか」という作話が最近思い浮かびました。
全ては「作話」であると考えると、創作意欲が湧いてくる
というのが僕なりのライフハックです。