「適者生存」と「弱肉強食」は違う。「適応力」と「我慢力」「受容力」は違う。
これは不満や批判というわけではありませんが、Twitter上には「社会適応力」=「頭の良さ」という風潮が、少なからずあるように見受けられます。
- 社会適応力とは...
- 頭の良さとは...
- 才能とは...
殆どの方は一度は考えることだと思いますが、
- そんなこと考える意味がない
- あまり考えたくない
と思いがちなのではないでしょうか。
「計算力」「記憶力」「文章力」「思考力」など指標は他にもある
ということは言うまでもないと思いますが、
果たして「社会適応力」=「頭のよさ」なのでしょうか?
「適応力」がなければ「計算力」「記憶力」「文章力」「思考力」があっても「頭がいい」とはいえないのでしょうか?
もちろん完全に間違っているとは言えませんが、そうとも限りませんよね。
「社会適応力」=「頭の良さ」という風潮
頭のよさを、「社会適応力」の観点から相対的に述べるとすれば、第一に挙げられるのは「所得」「社会に与える効用」「産み出した需要」でしょうか。
でもそれって、突き詰めると「国家に尽くす」ことが、「社会適応力」となってしまうのでは?
そもそも適応力に優劣をつけるという考えは危険なのではないでしょうか?
適応力に優劣はない
個人的に、適応力とは「異なる集団・社会・文化を学習する力」だと考えています。
だから「適応力」=「頭の良さ・賢さ」というのはあながち間違っていませんが、
- 適応力は「集団に適応できる能力」すなわち「受容力」である
という解釈は違う、とも思います。
周りに合わせようとするあまり、いわゆる「独断と偏見」
- 自分が直感で「良い」と思うか
- 実際に上手くいっているのか・成功例はあるのか
- 他人ではなく自分が、これを受容する価値はあるのか
- これを受け入れることは社会的敬意・評価の対象となり得るか
- これを受容することによって生じる変化は妥当なものか・挑戦に値するか
といった「バイアス」を無視することになってはいけないと。
自身の「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)」を自覚し、受け入れて「自分にとっての価値を見極める」「適性を見極める」ことこそが本当の適応力ではないでしょうか。
しかし「受容力」で検索して1ページ目に出たあるサイトのタイトルが
「受容力」=「素直さ」
というニュアンスだったので、これに関しては賛否両論なのかも知れません。
適応障害とは:「適応力」は「我慢力」ではない
「適応する」の定義は曖昧で難しいです。では、「適応できていない」とはどういう状態なのでしょうか。次に引用したのは「適応障害」についての記述です。
適応障害は、進学、就職、結婚など新しい環境にうまく適応できずに、うつ状態や不安状態、 攻撃的な行動などの症状が現れて社会生活に支障をきたすことをいいます。
特定のストレスが原因となっている心の病のひとつで、ストレスが始まってから3ヶ月以内に症状が出現します。
適応障害は、適応能力の低さが原因ではありません。また、「怠け」や「わがまま」でもありません。
社会環境のストレスと生まれながらの性格や素質とのバランスによって、落ち込んだりいらいらしたりと いったいろいろなストレス反応が出ることがありますが、これらは社会環境やその変化などに適応するための 必要な反応です。
けれども、ストレスが過剰で長く続いたり、ストレスに対して過敏であったりすると、 バランスが崩れてさまざまな症状が現れます。
少し話は変わりますが、新しい文化を受け入れない自閉症・ASDの傾向には、集団固有の文化、伝統を維持、保護する役目があったのではないか。
個々人の規模で言えば防衛機制であるが、それは集団全体で言うと「社会秩序の維持」「多様性の維持」になっていたのではないか。
と今回ふと思いました。
結論:「適者生存」と「弱肉強食」は違う
- 社会適応力=頭のよさ、これ自体は間違っていない
- しかし、何をもって社会に適応したと言えるのか、社会とは何か、この解釈を誤ってしまうと、自分で自分の道を狭める、あるいは、他人の可能性を否定する行動に陥ってしまうのではないか
- 適性がないと判断したらすぐに行動に移せることが重要
- 適応力に優劣をつけてしまうと優生思想に陥るかも知れない
- 人の多様性は文化の多様性になる
今回は「適応力」だけの内容になってしまいました。「才能とは何か」についてもいずれまとめたいと思います。
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