本質は眼では見えない。 --アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
l'essentiel est invisible pour les yeux.
目に見えない障害への理解
発達障害は「目に見えない障害」とよく表現されますが、「だから言わないと分からないよね」という話には何故かならない、何故か省略されている気がする今日この頃です。僕は発達障害当事者ですが、「目に見えない障害」と言われましても、いまいちピンときません。元の意図は「だから気づいてあげよう、声をかけてあげよう」という意味での啓発だと思いますが、当事者の被害者意識が強くなるだけでは?とも思います。
「言わないと分からない」「言っても分からない」
以前、ハイコンテクスト社会とローコンテクスト社会について紹介させていただきました。
多様な文化が存在し、前提となる考えが異なるケースの多い欧米諸国は言語能力、論理的説明力を重視する「ローコンテクスト文化」なのに対して、 前提となる考え(言語・共通の知識・価値観)が異なることが少ない日本は説明力よりも意図を察しあう能力、情報のスキャン能力が相対的に重要視されている「ハイコンテクスト文化」であると言われています。
日本は、ほぼ単一の民族で構成されていて文化的多様性がないという地理的な要因で「自分の常識にも偏りがある」ことを認識しない傾向にあるのかも知れないと。
僕も日本人なので他人のことは言えませんが、「言わないと分からない」「説明しないと会話が成り立たない」煩雑さを味わう経験があまりないことが発達障害の知識が正しい形で中々広まらない遠因になっているのではないか。
世の中には本当に色んな人がいる
多様性という概念が理解されているのなら、進んで他人を手伝う人Aさんがいても「この人は他人を助けることにやりがいを感じるのだな」と思われることになる。でも実はAさんは「仕事を押し付けられている」と思っている。
ハイコンテクスト社会の「察する文化」を否定したいわけではありません。しかし、このような概念がありそれを常識と考えている人が存在する、と念頭に置くことで我慢する無意味さ、他人の評価を恐れる無意味さ、他人に相談する大事さ、自分の意志を表明する大事さというものを認識できるのではないだろうか、とも個人的に思います。
無知は罪ではないが、「知らない」は言い訳にならない
発達障害者に「発達障害なのになぜ言わないのか、治さないのか」みたいなことを言うのは、
左利きの人に「何で左利きなの?」
アフリカ系の方に「何で肌が黒いの?」
と尋ねるようなものです。黒人差別とは違いますが、黒人差別の歴史のように障害者の歴史も昔は今日よりも遥かに残酷な時代でした。
「昔は障害者なんて隔離されていた」「健常者と同じ扱いを受けているだけでもありがたい」という理由で差別を行う者は自らの無知を晒すのに等しい行為です。
正常な精神状態ならば、自ら人としての尊厳を失ってまで差別を行いたい人間はいないでしょう。
肌が黒いのは事実なのに言ってはいけない、タブー視されるのは先ほど述べたように負の歴史があるからに他なりません。
同様に、中国を「支那」と表記されることが避けられるのも、障害者を「ガイジ」「きちがい」といったネットスラングで呼ぶことが非常識とされているのも同じことです。
今や「アスペ」「ガイジ」というネットスラングもあまりにも広まりすぎた故に概念となり、元々の意味はほとんど体をなさないものとなりました。
ですが、ネットや現実でこの言葉を聞いて意味を調べた方が「元々の意味」を知ることでショックを受けてしまう、「こんな酷い言葉を色んな人が使っている」「知った上で言っているのだろうか...」と疑心暗鬼に陥ってしまうことは考えられます。
「中国を『支那』と言ってはいけない」などは大人の事情と言ってしまえばその通りですが、いざ考えてみると単なる言葉狩りとは言い切れないケースもあるなと思いました。
発達障害が辛い?じゃあ治しましょう
— S-kindle☽ASD☘アスペルガー大学生 (@shotaro_kindle) September 30, 2019
特性が辛い?気にするな、というのは
頑張っても漢字が読めない?じゃあ毎日100回書こうね
左利きは不便です?じゃあ右利きにしましょう
目が悪い?眼鏡はダサいからレーシック受けましょうか
と同じくらい元も子もないことだと思います。#発達障害
汚染された言葉
左利きにも「ぎっちょ」という言い方がありますが、「ぎっちょ」も差別用語と考えている人は存在するらしいです。調べてみると、「ぎっちょ」「アスペ」のみならず「おっさん」や「ジジイ・ババア」も差別用語としてウィキペディアに載っていました。
「差別」という概念にも様々な捉え方がある、ということだと思います。ですが、このような言葉を使ったからと言って差別主義者だと糾弾するのは本質からずれた議論であり、それこそ言葉狩りにすぎないのではと思います。
相手を侮辱する目的で使用するのは論外であるが、一度汚染された言葉・表現は使えないというわけではなく、リテラシー、TPO(時・場所・場合)に注意して使わないといけない。
語感が障害者や身体的欠陥・病気または身体的特徴を連想させるもの(「めくら」(1976年以降)、「つんぼ」、「おし」、「どもり」、「ちんば」、「びっこ」、「ぼっこ(先天性なアポトーシス不全もしくは火傷などにより手指の四指や五指が癒合している状態:手部が棒状になっている意味の差別用語)」(1976年以降)、「かたわ」、「きちがい(1975年以降)」、「片手落ち[2][3]」、「黒ん坊」、「白痴」、「廃人」、「かったい」(ハンセン病患者)、「目眩まし」、「ブラインドタッチ」、「チビ」、「ハゲ」、「おっさん」、「ジジイ・ババア」、「デブ」、「ブス」、「ぎっちょ」、「ガイジ」、「チショウ」、「コミュ障」、「陰キャ」「パニ障」、「アスペ(アスペルガー症候群の略)」、「糖質(統合失調症)」「知障」「沼」など)
発達障害のみならず、本当は誰しもが思いつく発想が社会的タブーとされている(優生思想、差別など)という現実に初めて気づいたときにぶつけようのない怒りを感じる、理不尽さを感じるという経験は誰もが通る道であり、これにどう向き合うのかは親や学校といった環境が少なからず関わっていると個人的に思います。