氬─アスペの気構え

略歴:1999年生まれ。北海道出身。中2のとき自閉スペクトラム症(ASD)、社交不安障害(SAD)と診断。北海道大学。2018年2月28日からアマゾンkindleに電子書籍配信。Twitter:@ShotaroKindle 旧『アスペルガー大学生』

承認欲求は欠乏欲求であり、自己実現欲求は「謎の使命感」である

 

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発達障害と左利き】発達障害は個性なのか?

 

以前「左利きは発達障害を可視化したもの」という記事を書きました。

 左利きを右利きに矯正させれば表向き「左利き」という障害は治ったことになりますが、果たしてそれは正しいことなのでしょうか。

 

kindle-asd.hatenablog.com

 

 

発達障害なのに配慮や支援を受けたがらない

発達障害であることを受け入れられず精神科・心療内科に行きたがらない


というのも

 

眼鏡はダサくて恥ずかしい、だからレーシック手術を受けよう

という考えと根本的には共通する部分があるのではないか

 

発達障害に関する理解が進むにつれて、
発達障害者が支援を受けることは眼鏡をかけること、左利き用はさみを使うのと同じようなこと」という感じになってくれればと個人的に思います。

 

自分が意識するようになっただけかも知れませんが、最近はヘルプマークを付けている方も良く見受けられます。巷ではヘルプマークをつけている方に差別的な言動をされたという耳を疑うような事例もありますが、それこそヘルプマークは発達障害者にとっての眼鏡、あるいは松葉づえ的存在になって欲しい、というよりそうなっていくのだろうな、と個人的に考えております。

 

ヘルプマークは、義足や人工関節を使用している患者、内部障害や難病の患者、精神障害、知的障害[1]または妊娠初期の人等、援助や配慮を必要としていることが外見では分からない人々が、周りに配慮を必要なことを知らせることで、援助を得やすくなるよう、作成された、東京都によるピクトグラムである[2]。

著作権は東京都に帰属し、商標登録されている[3][4]。ヘルプマークの趣旨に合致すれば作成・活用することが認められている[5]が、寸法や比率を含めてガイドラインに従う必要がある[6]。

出典:ヘルプマーク - Wikipedia

 

発達障害は「言い訳」にならない

 

発達障害に関する議論では陥りがちですが、
まるで定型発達はオールマイティーであるかのように扱ってしまう。

 

実際には発達障害に関わらず社会福祉の対象者になるものはいるし、発達障害グレーゾーンの問題もある、

 

無意識に「逆差別」してしまっている、この考えが行き着く先は優生思想に他ならないでしょう。

 

優生思想というとナチスなどの人種主義、優生政策を連想しがちですが、いわゆる「内なる優生思想」というものは人間の普遍的感情から生じる考えなのです。

 

優生思想については以前も言及しております。

kindle-asd.hatenablog.com

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さらに言えば発達障害「化けの皮」になっている、というのも考えられるでしょう。

 

発達障害だからこういう人なんです」が罷り通る、または罷り通ると思い込むことが自分の中で成功体験となり、自己肯定感の低さ故に自己愛が強い発達障害者だと特にその「肩書き」に依存してしまう。

 

この「化けの皮」は山月記でいう「虎になる素質」に他ならないでしょう。

kindle-asd.hatenablog.com

 

発達障害は「化けの皮」になり得る

 

自己受容が出来ていない故に自己愛が肥大している人

他人に馬鹿にされたくない人

他人よりも優れた存在でありたいという気持ちが強い人程、

いわゆる「八方美人」になりがちである、と個人的に思います。


「きちんと対応しないと可哀そうだな」

「大事な用だったらどうしよう」と思って誰に対しても愛想よく振舞う。

 

こう書くと

客観視出来ている、損得を考慮して保険をかけている

ようにも見えますが、誰に対しても隙を見せたがらない悪い意味での「八方美人」「他者本位」は精神が疲労困憊してしまうのが関の山である。

 

誰にでも愛想よく振舞うというのは個人のスペック的にも現実的ではない。

 

最悪のケースだと疲労困憊した結果ストレスが爆発してしまい、「化けの皮がはがれた」形になり今まで積み重ねてきた人望をそっくり失うことにもなりかねないだろう。

 

 

自尊心が肥大するあまりに化けの皮を被ることでしか社会的な「人」としての行動がとれない、化けの皮を被り続け本当の自分を隠し続けることで他人を見下す自分に酔いしれる

 

これも山月記でいう「虎になる素質」に他ならないでしょう。

 

  • 相手より優れていると思いたいから相手に求めるハードルが低くなる
  • 相手から軽視されるようなことを言われても相手を見下すことで自尊心を保つ

 

「自尊心が高いと碌なことがない、低い方がいいのでは」

「自尊心が高い奴には碌な奴がいない」


という考えの人も多くいますが、自分なりに解釈するとこういうことなのだろうと思います。

 

承認欲求は欠乏欲求であり、自己実現欲求は「謎の使命感」である

 

 

 

自己実現欲求」というと「生理的欲求から離れたピラミッドの頂点にある欲求」というイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか。

 

  • 生理的欲求が満たされると安全の欲求が生じる
  • 安全の欲求が満たされると社会的欲求が生じる
  • 社会的欲求が満たされると承認・尊重の欲求が生じる
  • そして承認・尊重の欲求が満たされると自己実現の欲求が生じる

 

僕自身こういうイメージを持っていました。

 

この解釈も間違ってはいないらしいですが、全ての人間に当てはまる原則というわけではなく、全ての欲求をこのマズローの欲求階層説に対応付けることについては賛否両論らしいです。生理的欲求、安全の欲求より先に社会的欲求や承認欲求が生じる人※も存在するだろうというわけですね。

 

※これには有名になろうとして危険を顧みずに鉄骨渡りをするユーチューバーや食事の時間も惜しんで作品を作り続ける芸術家なんかが該当するのでしょうか。

 

ですが、承認・尊重の欲求を含めた最初の4つの欲求と自己実現の欲求に関しては「欲求のメカニズム」が異なります。

 

それは、承認欲求や社会的欲求・生理的欲求は「欠乏欲求」なのに対し、自己実現の欲求は「成長欲求(存在欲求)」であるという点です。

 

マズローは、最初の4つの欲求を欠乏欲求 (Deficiency-needs) 、自己実現の欲求を存在欲求 (Being-needs) としてまとめることもある。マズローは、欠乏欲求と存在欲求とを質的に異なるものと考えた。自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越に達する人は極めて少ない。数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当然と思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。

また、欠乏欲求を十分に満たした経験のある者は、欠乏欲求に対してある程度耐性を持つようになる。そして、成長欲求実現のため、欠乏欲求が満たされずとも活動できるようになるという(例:一部の宗教者や哲学者、慈善活動家など)。

晩年には、自己実現の欲求のさらに高次に「自己超越の欲求」があるとした[2]。

出典:自己実現理論 - Wikipedia

 

原則的に、成長欲求は欠乏欲求が満たされて生じるものであるが、欠乏欲求の欠如に耐性を持っている、自分の存在意義を確立している人、すなわち「自己肯定感がある人」は自分の意志で行動できる、主体性を持った活動ができる

 

と僕は個人的に解釈しています。

 

自分は何に興味があるのかを自己分析するキュレーション能力はインプットの量と質を高める上で重要でしょうし、アウトプットへのモチベーションにもなるでしょう。 「キュレーション能力はこれからの時代に必須!」という記事も見かけますが、キュレーション能力があると出世しやすいというより、キュレーション能力があり「自分の論理的思考を育てたい」というモチベーションがある人ほど「より質の高いインプット環境を求める」とも言えるのではないでしょうか。 いわゆる「自己実現欲求」ですね。

 理性とは感情のカテゴライズ能力であり、論理のキュレーション能力である。 - アスペルガー大学生

 

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 欠乏欲求は自己肯定感を保つために存在する。例えば「インスタ映え」はよく話題になるが、承認欲求はSNSの「いいね」だけでも満たせてしまう。承認欲求はアイデンティティがなくても満たせるものである。承認欲求がすごい人は別に昔からいるだろうし、SNSで承認欲求を発散するのは問題ではない。しかし、承認欲求の欠如に対する耐性がなくなることでSNSに依存するのは問題である。「承認欲求」は「意識高い系」みたいによく揶揄の意味で用いられがちだが、承認欲求は誰にでも存在する。

 

マズローの図の最下層にスマートフォンのバッテリーを加えるという風刺も話題になりましたが、欠乏欲求に対する耐性がなくなることで成長欲求をもっていない、哲学的に言うと「別に人間として生まれる必要性がなかった人間」になってしまうのではないでしょうか。

 

自己有用感の積み重ねが自己肯定感

 

自己有用感は自分には役目がある、役に立っている、自分は恵まれているという気持ちです。

 

「こんな私の毎日を充実した日々にしてくれた皆さんには感謝しかありません」というのは自己有用感を端的に表した文ですね。

 

しかし、自己肯定感が伴わないと自分はなぜ充実しているのか、に目を向けようとしない。他者に依存してしまうだけ。自己肯定感がないと変化を恐れるともいえるでしょう。これは「自己愛」が欠けている状態ですね。

 

逆に自己肯定感があるのに自己有能感を持っていないのは「自己愛」しかない状態。

自分が恵まれないのは環境のせい。

私は環境のせいで足踏みしている、

環境に恵まれなかったため私は自分に妥協せざるを得なかった、という考え。

 

例えば「隠居した老人」なんかが謙遜と自虐の意味で「家の都合で諦めざるを得なかった」といったニュアンスで語るシーンには既視感がある方が多いと思いますが、誤解を恐れずに言うとこのような思考は「老いた考え」とも言えるでしょう。

 

自己実現とは何か

自己実現とは,高等学校学習指導要領解説保健 体育編・体育編(平成21年)において,人間の欲求 の高次なものの一つとして挙げられており,自分自身を高め,もてる力を最大限に発揮することであり,自己の欲求や価値観に基づき具体的に目標を掲げ,他者の価値観も尊重しつつ現実を踏まえながら行動し,その結果を自己評価する過程を繰り返すことにより成り立つことと示されている(3)。

 

また,生徒指導提要(平成22年)においては,自己実現とは,単に自分の欲求や要求を実現すること にとどまらず,集団や社会の一員として認められていくことを前提とした概念であり,基礎にあるのは,日常の学校生活の場面における様々な自己選択や自己決定であると示されている(4)。

出典:http://www.hiroshima-c.ed.jp/center/wp-content/uploads/kenkyu/choken/h26_kouki/kou22.pdf

 

自己有能感の形成について

汐見稔幸(2011)は,自己有能感の形成について, 他者の評価を通じて自分の性格を肯定的に感じる自己有能感の形成と,経験的な達成感の積み重ねを通じた自己評価による自己有能感の形成の二つの面があると述べている(6)。 これらのことから,自己実現に向け,日常生活で 遭遇した課題を解決したり,目標に向かい力を発揮 したりする原動力は,自己有能感であると考える。 また,自己有能感の形成とは,他者評価や自己評価を通じて自己を肯定的に感じることや,達成感の積み重ねを通して課題に挑戦する意欲や解決する能力を育成することであると考える。

出典:http://www.hiroshima-c.ed.jp/center/wp-content/uploads/kenkyu/choken/h26_kouki/kou22.pdf

 

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