【グレタ・トゥーンベリ】障害は個性の一つなのか
グレタ・トゥンベリの「アスペルガーは私の誇り」とは何か
グレタ・トゥーンベリさん(16)は、9月23日にニューヨークで開かれた国連気候変動サミットの演説で注目を集めたスウェーデンの高校生です。トゥーンベリさんはノーベル平和賞の候補としても名を連ねており、もし受賞すれば史上最年少のノーベル平和賞受賞者となります。
※ノーベル平和賞は10月11日に発表される。
また、トゥーンベリさんは自身がアスペルガー症候群であることを公表しており、「アスペルガーは私の誇りです」といった発言も話題になっています。
グレタさんは、アスペルガー症候群と強迫性障害、場面緘黙であることを公表してる。
アスペルガー症候群とは、知的障害を伴わない自閉症のこと。東京都自閉症協会によると、対人コミュニケーションが苦手、興味の対象が限定的、などが主な症状だという。
しかし、グレタさんは言う。「アスペルガーは病気ではなく、1つの才能。アスペルガーでなかったら、こうして立ち上がることはなかったでしょう」と。(本人Facebook 2/2の投稿より)
「大人に利用されているだけだ」「集団ヒステリーだ」という批判もありますが、本人が言っているようにアスペルガーが動機付けになったのは確かなんでしょう。その 類い稀なる行動力は「白黒つけないと気が済まない」「正直で間違っていることを無視できない」という彼女の特性があってこそなのかも知れません。
【思考と嗜好】多数派は普通、少数派は個性
「発達障害は個性、という主張は配慮が必要な人にとって風評被害になってしまうのでは」という意見もありますが、無責任に「発達障害は治る」というのと「発達障害は個性だ」というのでは意味は全く異なります。
個性というのは左利きと同じように少数派だからこそ生じるものなのです。「障害は人ではなく社会がつくる」という言葉もありますが、社会が多数派に合うように出来ているから生じるというわけです。
【発達障害は「治す」ではなく「直す」もの】
— S-kindle☽ASD☘アスペルガー大学生 (@shotaro_kindle) September 30, 2019
発達障害は風邪や病気とは異なり特性です。決してあってはならないものではありません。「病気だから普通でない人」「なのに治療しないのは甘え」という認識が存在する事実は一当事者として恐ろしいです。#発達障害 #発達障害啓発
左利きを右利きに矯正させれば表向き「左利き」という障害は治ったことになりますが、果たしてそれは正しいことなのでしょうか。
— S-kindle☽ASD☘アスペルガー大学生 (@shotaro_kindle) September 22, 2019
承認欲求は欠乏欲求であり、自己実現欲求は「謎の使命感」である https://t.co/smgPO5lSQX #発達障害 #はてなブログ #ASD #発達障害あるある #自閉症
完全な多数派、少数派など存在しない
個性(こせい)とは、個人や個体の持つ、それ特有の性質・特徴。特に個人のそれに関しては、パーソナリティと呼ばれる。
本当の意味で「普通の人」というのは「全てにおいて多数派の思考と嗜好を持っている人」だろう。
そう考えると「少数派である要素=個性」と言えるのではないだろうか。
「個性=少数派」と念頭に置くことは、他人の志向や嗜好について口を出す前に一呼吸置くことに役立つだろう。
承認欲求も優生思想も人間の普遍的な感情から生じるものであることを弁え、常に念頭に置くことは理性ある行動を目標にする上では欠かせない習慣だろう。
──例──
- 承認欲求は「寂しい」「満たされていない」から生じる
- 差別は自分の方が上・同等の筈なのに、という「嫉妬」「僻み」から生じる
発達障害に関する議論では陥りがちですが、 まるで定型発達はオールマイティーであるかのように扱ってしまう。 実際には発達障害に関わらず社会福祉の対象者になるものはいるし、発達障害グレーゾーンの問題もある、 無意識に「逆差別」してしまっている、この考えが行き着く先は優生思想に他ならないでしょう。 優生思想というとナチスなどの人種主義、優生政策を連想しがちですが、いわゆる「内なる優生思想」というものは人間の普遍的感情から生じる考えなのです。
承認欲求は欠乏欲求であり、自己実現欲求は「謎の使命感」である - アスペルガー大学生
【志向と嗜好】それでも他人の個性を否定できるのか
個性とは何か、アイデンティティとは何かに対する答えは存在しませんが、だからと言って答えがないから考える意味がないというわけではないでしょう。
「頭がよすぎる人は何かが欠落している」
「IQが20違うと会話が成立しない」
「異常者でなければこのような挑戦は出来なかった」
という言い回しはよく耳にしますが、自分が納得できないことになるとついついレッテルを貼ってしまう、自分の方が正常であると決めつけてしまうというのは「自分は多数派だから正しい」という悪い意味で集団主義的な思考ではないでしょうか。
解答が存在する問題ではあり得ないことですが、自分が理解できないというだけで相手を一方的に、またはお互いに異常者扱いする、という状況は「偏見」という形で現実に存在しています。
先ほど述べた「頭がよすぎる人は何かが欠落している」「IQが20違うと会話が成立しない」みたいな言い回しは「相手の頭が良すぎた」「自分の理解力がなかったから」という謙遜・気遣いや皮肉の意味合いも含まれているでしょうが、それは同時に「でも自分は多数派だから」「自分の方が普通だから」という他人の同調・共感を期待するという意味も含まれているのではないでしょうか。
それはもはや「第三者を巻き込んだ自虐」なのでは?と個人的に思う今日この頃です。
このように、少数派としての視点に立つ経験が出来たからこそ今まで気にしていなかったことを気にするようになり、今まで気にしていたことが気にならないようになる、これが多様性であり、アイデンティティの在り方の一つでもあるのだろうと思います。
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