アスペルガー大学生

略歴:1999年生まれ。北海道出身。東京に住んでいたこともある。中学校2年生のときに自閉スペクトラム症(ASD)、社交不安障害(SAD)と診断される。2022年現在診断名はアスペルガー症候群(ASD)のみであり、スキゾイドパーソナリティ障害の可能性もあると考えている。小学生時代に2度の引っ越しと両親の離婚を経験している。一年の自宅浪人を経て北海道大学に入学する。2018年2月28日からアマゾンkindleに電子書籍配信。Twitter:@ShotaroKindle

ヘレン・ケラー「一つの扉が閉じれば、もう一つの扉が開く」チャレンジドは理想論に過ぎないのか

 

一つの扉が閉じれば、もう一つの扉が開く。

しかし閉ざされた扉ばかり、いつまでも未練がましく見つめていると、開かれている扉に気づかないことが多いのだ。

--ヘレン・ケラー

 

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「社会的に不利」とは

 

 

障害者はハンデキャッパー(社会的に不利な者)と訳されますが、そのネガティブなイメージを払拭する為、アメリカでは障害者をチャレンジド(使命を与えられた者)と呼ぼうとする運動が広がっています。

 

「永久にハンデキャッパー(社会的に不利な者)として生きる」と言うと絶望しか感じませんが、盲聾唖といった重度の障害があってもなお世界に希望を与えたヘレンケラーはこれにどう立ち向かったのでしょうか。

 

 

ヘレンケラーの考え方

 

「一つの扉が閉じれば、もう一つの扉が開く」。このヘレン・ケラーの名言は、だれかの願いが惜しくもかなわなかったときなどに、長い目で見ればいいこともあるさと慰めるために使われることが多い。だが夢破れた瞬間にそう言われても、なんの慰めにもならないかもしれない。この名言には、実は続きがある。「しかし閉ざされた扉ばかり、いつまでも未練がましく見つめていると、開かれている扉に気づかないことが多いのだ」。わたしたちが失われた選択肢を未練がましく見つめ続けるのは、すべての扉を大きく開け放っておきたいからなのだ。

出典:選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫) [ シーナ・アイエンガー ]

 

シーナ・アイエンガー 『選択の科学』から引用させて頂きました。

 

単なる言葉遊びと言えばそれまでですが、

自分が発達障害と診断され、自分自身を発達障害を持つ人間と認知したことは、

中学生ながらも、世界の見方を大きく変えた記憶があります。

 

詳しくはプロフィールをご覧ください

kindle-asd.hatenablog.com

 

 

世界の見方が変わることで、今までとは視界が変わる。

今まで考えなかったことを考えるようになり、逆に考えないようになることもある。

 

これはまさに、

 

「一つの扉が閉じれば、もう一つの扉が開く」

 

に込められた意図だと個人的に思います。

 

自分の考えを引き出す鍵の形が変わったことで

今まで開かなかった扉が開くようになり、今まで開いていた扉が開かなくなる。


一つの扉に固執するあまりに、開けられるのに開けていない扉がある場合は障害に向きあっているとは言えない。

 

障害を理由に、周りの人が当たり前にやっている努力をやめてしまうと、今まで開いていた扉の鍵穴も、錆付いて開かなくなってしまう。

 

こういったことはヘレンケラーが戒めの意味を込めたであろう

 

「しかし閉ざされた扉ばかり、いつまでも未練がましく見つめていると、開かれている扉に気づかないことが多いのだ」

 

で警鐘を促していると。

 

あくまで自分なりの解釈ですが、

 

  • 「自分に向き合う」とは、開かない扉・開く扉を確認すること(適性を見極めること)であり、開く扉はすべて開けることで、また新しい「扉」が見つかる。
  • 正しく自分に向き合えていれば扉の前で立ち往生することはない、もしそうなったら、また開く扉を探そう(選択使を考える)。
  • 扉を捨てること=諦めるではなく、違う選択肢を考えることである。

 

たった2文の言葉ですが、多くのことを学べた気がしますね。

 

 

チャレンジドは日本語で表現しがたい

 

チャレンジというと「挑戦する」を思い浮かべる方が多いと思いますが、他にも重要な意味として「困難」「難題」といったものがあります。

 

なので、英語でいう「チャレンジ」とは困難に立ち向かうことですが、カタカナ語の「チャレンジ」ではもっと軽いニュアンスで使われている印象があります。

 

調べてみると、 Yahoo!知恵袋にもこのような質問がありますね。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

要するに「Challenge」=「チャレンジ」ではない、というわけです。

 

  • チャレンジドにぴったり当てはまる言葉が日本にない
  • 日本語のチャレンジと英語圏のチャレンジが異なるニュアンスで使われている

 

これは一見些末なものにみえますが、これが文化的な要素として、

欧米のある意味ポジティブな障害への考え方が日本に浸透していく上で一つの妨げになっているのではないかとも思いますね。

 

また、日本では「障害者は社会的に不利なんだから福祉が負担してあげている」という障害に対するネガティブな見方、いわゆる「偏見」がまだまだ根強いのも事実です。

 

それもあってかTwitterでも当事者がチャレンジドについて「好きでなったわけでもないのに使命とか軽く言わないで」と訴えるツイートは散見されます。

 

このテーマについては以前も取り上げております。

 

例えば「障害者に因る医療・福祉の財政負担、介護者・関係者の負担」といった問題についていざ考えてみたときに、ナチスや2016年にあった相模原障害者殺傷事件のような「内なる優生思想」を否定することはできるのでしょうか。

出典:【氏と育ち】発達障害は遺伝なのか、それとも教育なのか - アスペルガー大学生

私たちは「弱者に何かをしてあげることではなく、弱者を、弱者で無くして行くプロセスを福祉と呼びたい」と考えています。それが、私たちが「チャレンジド」という呼称を提唱する大きな理由です。

出典:https://www.prop.or.jp/about/challenged.html

 

 

 

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