【内なる優生思想】「植松聖被告という一人の犯罪者に死刑判決が下された」で済ませていいのか
【死刑判決】「植松聖被告は異常者だった」で済ませていいのか
判決の言い渡しは午後1時半に始まり、横浜地方裁判所の青沼潔裁判長は被告に証言台の前に来るように求めたあと「主文は最後に告げることとします。判決理由が長くなるため証言台の前に座ってください」と述べ、冒頭で結論にあたる主文を述べず、判決の理由を先に読み上げました。
「主文後回し」がTwitterトレンド入りしてから程なくして、あの相模原障害者施設殺傷事件を起こした植松聖被告に死刑判決が言い渡されました。
初耳でしたが、「主文後回し」は死刑判決の確定演出的なものとして有名らしいですね。被告人が動揺する前に判決理由をしっかり伝えるためだとか。
戦後最悪の大量殺人事件として歴史に名を残してしまった猟奇的な凶悪犯罪ですが
「彼は異常だった。」
それで済ませてよいのでしょうか。
少なくとも言えることは、植松に死刑判決が下ったということが「彼に判断能力があると司法が判断した」と意味するということです。
画像:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200316/k10012333681000.html
つまり「まともな判断能力を持った大人が「障害者は死ぬべき」と判断した」ことが公に認められたことになります。
そんな彼がこのような手紙を衆議院議長と総理大臣にしたためるほど自らの思想に酔いしれていたのは何故なんでしょうか。
Aは2016年2月中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した[123][124]。
「津久井やまゆり園」と同県厚木市内の障害者施設の2施設を[125]標的として名指しした[126][127]。実際に被告人Aは「津久井やまゆり園を襲撃したあとで厚木市の障害者施設も襲撃するつもりだったが、やまゆり園で拘束しようとした職員に逃げられて失敗したため『警察に通報される』と思ったうえに『やまゆり園だけでも結構な人数の殺傷行為ができた』と考えたため断念した」と述べている[125][128]。
具体的な手口として「職員の少ない夜勤に決行する。職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくし、2つの園260名を抹殺してから自首する。日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」などの内容が記されていたほか、要求として「『逮捕後は心神喪失で無罪として2年以内に釈放し、5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる。新しい名前として“伊黒崇”を与え整形手術をさせる』などの条件を国から確約してほしい」という記述もあった[129]。
またAは、2016年2月に安倍晋三首相宛ての手紙を自由民主党本部にも持参していた[130]。
そして何故このような事件を起こしてしまったのでしょうか。
植松聖の万能感はどこから来たのか
この手紙を見ると「自分は誰もが躊躇して出来なかった素晴らしいことをやろうとしている」と言わんばかりの内容が並んでいます。
それは裁判でも争点となった「大麻」に起因する万能感、あるいは精神障害から生じたものだったのか?
それも全くないとは言い切れませんが、結局の所彼の言っていることは「優生思想」に他ならないのです。
「優生思想」は誰もが抱いている自然な考えでもあります。
例えば、若者と高齢者どちらかの命を見捨てなければならないとき、あなたはどちらを助けるでしょうか?
多くの方は若者を助け、高齢者を見殺しにする選択をするでしょう。
もしかすると私の考えが足りないのかも知れませんが、むしろ若者を見棄てる理由がひとつも思い当たりません。
「高齢者よりは未来ある若者を助けよう」
「どうせどちらかしか助からないと分かっているなら、病人ではなく健常者を助けよう」
これは冷酷ではあるものの、理にかなった判断であることも否定できません。
このように特定の状況では誰しもが否定できない合理的考え、これを突き詰めたものが「優生思想」と言っても特に語弊はないと個人的に考えています。
私は大学で哲学や心理学を学んでいるわけではないので厳密には全然違うのかも知れませんが。
「内なる優生思想」を否定できる者はいない
社会の発展に寄与する見込みのない者は「切り捨てる」ことで社会の負担が減る、不幸な思いをする者が減る。
彼の考えを「異常だ」「何も分かってないバカだ」ということは簡単ですが、いざ自立した生活が困難な人の世話を任せられたときでもあなたはその態度を維持できるのでしょうか。
自分の生活すらままならなくなり心身ともに余裕がなくなったら──正直僕は自信がないかもです。
もし植松被告がそうであったように重度の障害者を世話する状況になったとき「障害者は社会にとって重荷でしかないのではないだろうか。それを世話する私は一体なんだろうか」と頭をよぎるかもしれません。
普段は意識しないだけで、その皺寄せは誰かにのし掛かっているという現実があるのです。
施設の職員だった植松はまさにその一人だったわけです。
同情の余地はありませんが、単なるシリアルキラー的なものではなく社会が生むべくして生んだ存在なのかも知れません。
それが今回の事件で浮き彫りになったと。
高齢者が車を運転して若者を轢き殺してしまうニュースを聞いて、「高齢者の運転手は生きているのに未来ある若者が死んでしまったのか」と思ったり、
「もし日本から高齢者が全員いなくなったとしたら、日本の経済状況が遥かに改善するのではないだろうか」という「内なる優生思想」を完全に否定できる者はいないでしょう。
この高齢者を「障害者」に置き換えても同じことです。
「だから私たちは意識を改めなければならない」みたいなことは簡単に言えます。
しかし、繰り返しになりますが
この事件は「19人も殺したら当然死刑ですよね」で済ませていいものでしょうか?
「植松被告は異常だった」でいいのでしょうか?
仮に第2第3の植松が障害者施設や老人ホームで同じような事件を起こしたとしても「残虐な凶悪事件だった」で済ませてよいのでしょうか?
一つだけはっきり言えるのは、相模原障害者殺傷事件は社会に大きな衝撃を与えたとともにこれからも引用され続ける事件だということですね。
参考